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特集 美と機能性を兼ね備えた名古屋扇子 モノづくり王国名古屋が生んだ芸術品

日本で生まれ、世界の貴婦人を虜にした扇子(せんす)。

閉じた姿はすっきりコンパクト、開けば別世界が広がる扇子。日本の伝統工芸品の多くは中国をルーツとしていますが、この扇子は、正真正銘、日本で生まれたオリジナルです。
平安時代初期、宮中では筆記用具として木簡(もっかん)という薄い檜(ひのき)の札が使われていました。これを糸で綴りあわせた檜扇(ひおうぎ)が、扇子のもとになったといわれています。やがて檜扇には美しい絵が描かれるようになり、紙扇も造られました。

17世紀から19世紀にかけて、扇子は中国や大航海時代のポルトガルを経てヨーロッパへと伝わり、社交界の貴婦人たちの間で大流行しました。フランス・ルイ王家の人たちが持った絹や象牙、鳥の羽根の扇子、フラメンコに欠かせないスペイン扇も、日本がそのルーツです。
また最近は“COOL JAPAN”と呼ばれ、欧米で日本文化がブームになっていますが、アニメ、鎧兜、伝統芸能と並び、一本の芸術・扇子も、改めて注目を集めています。

武士にとって扇子は、もう一本の刀。

永禄11年(1568年)9月、織田信長は、室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じ京都へ上洛、全国にその名を轟かせました。京を支配した信長の下には、数々の献上物が届けられましたが、その中に混じって二本の扇子が贈られました。その白扇には“二本(日本)手に入れる、今日(京)のよろこび”という歌が詠まれていたといわれています。
このように扇子は、鎌倉時代以降は権力のシンボルとして、武士にも普及してきました。戦国武将は、戦場で軍勢を指揮する際に扇子を用いたり、平時にも護身用に鉄扇を持ち歩いていました。戦国武将の肖像画の多くには、扇子が描かれていますが、武士階級では刀と同じ物として解釈され、武士の魂として尊ばれていました。
江戸時代には、そのカタチから「末広」と呼ばれ、縁起の良さから茶道、香道、能楽、歌舞伎などにおいても重要な道具として扱われ、庶民にも普及していきました。

懐に、徳川御三家筆頭の伝統工芸を。

名古屋扇子は、宝暦年間(18世紀中頃)に京都から現在の西区幅下あたりに移住してきた井上勘造父子によって始められたとされています。
以来三百余年、尾張藩の保護を受け、名古屋扇子は、徳川御三家筆頭の尾張城下町の発展と共に繁栄し、京都や江戸と並ぶ三大扇子として名を馳せました。
京都扇子が舞扇、飾扇といった高級志向の扇に対し、名古屋扇子は祝儀扇や男物の親しみやすい扇を得意としています。名古屋の扇子づくりは、骨・紙・画・折・仕上りの5工程に大きく分かれ、それぞれの工程に専門の職人がいます。また、紙の工程は、さらに地紙工程、箔押し、上絵手書き、木版画すり等に分かれており、工程ごとに専門の職人がいます。
職人の伝統技の積み重ねによって生まれる名古屋扇子は、まさにモノづくり王国、名古屋が生んだ“美と機能性を兼ね備えた”芸術品です。
西区界隈では、今でも昔ながらの材料と技法で、一生ものの名古屋扇子を造りつづけています。

名古屋おもてなし武将隊×名古屋扇子

戦国の世に"力と名”を誇示した武将たちの多くは、その強烈な個性から、ユニークな愛称を持っていました。本扇子では、「名古屋おもてなし武将隊」の6人6様のキャラクターと愛称を、動物のイラストとシンボルカラーを使い表現いたしました。

信長鷹扇

鷹狩をこよなく愛した織田信長は、天下人にしか懐かない、気高くも美しい白鷹を飼っていたと伝わります。

秀吉猿扇

豊臣秀吉は“猿”と呼ばれ、貧しい農民から天下人へ、世紀の大出世をはたしました。

家康狸扇

徳川家康のあだ名は“狸親父”。その深謀遠慮が260年余の平和な時代を築きました。

利家犬扇

幼名「犬千代」。前田利家の信長、秀吉への忠義は、武士の鑑として称えられました。

清正虎扇

清正こと、加藤虎之助清正。虎退治のエピソードから、猛将のイメージが生まれました。

慶次孔雀扇

文武に優れた天下御免の傾奇者。前田慶次の派手な振る舞いと絢爛豪華な衣装は、まさに孔雀そのもの。

名古屋の伝統産業品“名古屋扇子”製造株式会社末廣堂

大正元年創業。輸出向けの扇子製造業として始まった末廣堂は、昭和の半ば、国内生産の利点を活かしたオリジナル性の高い商品を企画するようになり、イベント・ギフト用商品として各企業からの新たな需要を掘り起こしました。宝暦年間(1751〜1764)から続く「名古屋扇子」の伝統を受け継ぎ、扇骨・紙・折・仕上げ等の各工程とも、伝統的手作りの製法を守り抜いて今日に至ります。

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